講座497 単なるブーム?「非認知的能力」
ヘックマンの『幼児教育の経済学』が日本で発売されたのは2015年のことでした。
幼児教育の重要性、特に非認知的能力の重要性が日本でも叫ばれるようになり、
2017年に幼稚園教育要領や保育所保育指針などが改訂され、幼稚園と保育所と認定こども園における保育目標が統合されました。
それが「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」という目標です。
非認知的能力というのは、テストや検査などでは測ることのできない(数値化できない)能力のことです。
たとえば、やる気、コミュニケーション能力、最後までやりとげる力、がまんする力などです。
こうした非認知的能力が、幼児のその後の人生に影響を与えることが研究結果から明らかになり、ひいては社会全体(その国の豊かさ)にも影響することがアメリカの研究結果からわかりました。
こうして、日本では「非認知的能力」という言葉が流行語のように幼児教育の現場で取り上げられました。
私は、今でも、《幼児期における非認知的能力の育成》は重要だと認識していますが、
日本の幼児教育の現場では、非認知的能力を育成するためのスキルが共有されているのかどうかが心配です。
日本の園所で働く保育士さんたちの労働環境は過酷です。
一人の保育士さんが担当する子どもの人数も多いですし、働き方改革の影響で労働時間にも制限があります。
保護者のニーズも多様化していますし、ICTも未整備です。
マスコミなどでは《学校の先生方は大変だ》と言いますが、私は《保育士さんこそ大変だ》と思います。
非認知的能力云々などと言っている暇がないほど多忙なのではないでしょうか。
それに比べて私は暇ですので、今回は忙しい保育士さんのために、非認知的能力を育てるためのスキルを紹介します。
2.「アクティブ・ラーニング」という機能
3.「シェアド・コントロール」というスキル
4.「足場づくり」というスキル
5.「実況中継」というスキル
6.追跡調査の結果
1.世界が認めた五大幼児教育
OECD(経済協力開発機構)が2004年発表した「世界5大幼児教育カリキュラム」をご存知ですか?
次の5つです。
①体験教育(ベルギー)
②ハイスコープ・カリキュラム(アメリカ)
③耳を傾ける教育(イタリア)
④テ・ファリキ(ニュージーランド)
⑤プレ幼稚園制度(スウェーデン)
日本では、②のハイスコープ・カリキュラムが、ジェームズ・ヘックマン教授が著わした『幼児教育の経済学』という本の中で紹介されて有名になりました。
その影響で「非認知的能力」という言葉が流行したわけです。
しかし、非認知的能力を育てることの《大切さ》ばかりが取りざたされ、その具体的な《育て方》については広まっていないように思います。
そして、そう思っているうちに、それどころではない現場の忙しさもあり、ブームは終わってしまったのではないかという印象があります。
そこで、ハイスコープについてちょっとだけ勉強した経験に基づいて、それがどういうものなのかを少しだけ解説してみたいと思います。
2019年の6月に青森県の弘前市にて、HighScope教育財団の研修会が開かれました。
講師はアメリカから招かれたシャノン・ロックハート氏と若林巴子氏、コーディネーターは日本の和久田学氏です。
私はその時に初めて「ハイスコープ・カリキュラム」の具体的スキルを目にしました。
それをこれから簡潔に紹介します。
ハイスコープ・カリキュラムとは何か。
それは次のひとことで説明がつきます。
アクティブ・ラーニング
アクティブ・ラーニングを簡単に言うと、「能動的な学習」という意味になります。
HighScope Japanの代表理事をされている和久田学氏はアクティブ・ラーニングを図のように説明されます。
その活動をどうしていくかという決定権(コントローラー)は、保育士と子どもの真ん中に置いて対話によって決めていくという学習方法です。
要するに、先生主導でもなく、かといって主導権を子どもに渡してしまうのでもない。
その中間に、まるで「コントローラー」という決定装置が存在しているかのような対話が繰り広げられる。
そんなスキルなのです。
たとえば、ハイスコープには「プラン・ドゥ・レビュー」というスキルがあります。
子どもが「自由あそび」をする時に使うスキルです。
「自由あそび」だからと言って、全く自由に遊ばせるのではありません。
プランは計画、ドゥは実行、レビューは振り返りですから、その三つの過程がカリキュラムの中に位置づけられています。
難しいことではありません。
遊びを始める前に保育士は次のように聞きます。
「今日は何をして遊びますか?」
必ず言葉によって聞きます。
したがって、聞かれた子どもは必ずこうなります。
言葉を使って考える。
私は孫の家に行った時に、娘(孫の母親)がよく次のように問いかけているのを耳にします。
「何する?」
「パズルする?」
これがハイスコープの「プラン・ドゥ・レビュー」の「プラン(計画)」です。
非認知的能力を育てるためのスキルです。
「ドゥ」は実行ですから「遊び」です。
遊びが終わったら次の言葉で振り返ります。
「今日は何して遊びましたか?」
家庭ではなかなか言わないと思いますが、そこが保育士はプロです。
遊びっ放しで終わるのではなく、こうした言葉で非認知的能力を育てます。
聞かれた子どもは、その日やったことを言葉で答えます。
「今日は○○ちゃんと積み木遊びをしました」とかって答えるかもしれません。
話すのが得意な子はもっと長く詳しく報告するかもしれません。
これが「レビュー(振り返り)」です。
簡単に言うと、これがアクティブ・ラーニングによる「自由遊び」のイメージです。
このアクティブ・ラーニングは幼児の脳の「実行機能」を育てます。
実行機能というのは《目標に向かって自分をコントロールする能力》のことです。
「プラン・ドゥ・レビュー」という一見簡単そうに思えることが、どうして非認知的能力を育てることになるのか?
もう少し解説していきたいと思います。
2.「アクティブ・ラーニング」という機能
なぜ、アクティブ・ラーニングによる「自由遊び」は脳の実行機能を育てるのでしょう。
それは「全くの自由」ではないからです。
「何を使って」「誰と」「どこで」「どう遊ぶか」といった計画が立てることによって、子どもは色々なことを考えなければならなくなります。自由気ままに遊ぶのとは違って来るわけです。
おまけに、遊んだあとには毎回「振り返り」もあります。
気を抜くわけにはいきません。
「きっと後で聞かれるな」と、なんとなく思います。
すると、どうなるか?
複数の機能をコントロールしなければならなくなる
遊びの中では、手も使うし、足も使うし、頭も使う。目や耳や口も使うでしょう。
遊びというのは、その瞬間、瞬間に、複数の機能を同時に使って活動します。
たとえば、《今日はお人形遊びをする》と決めたとします。
途中で他のグループが遊んでいる様子を見て、そっちの遊びに加わりたくなったとしましょう。
どうするか?
自分で計画を立てわけですから、考えますよね。
《今日はお人形遊びをするって決めたけど、どうしようか?》と考える。
これを「記憶の出し入れ」と言います。
そのことについて先生と対話する。仲間と相談する。
これを「情報の統合」と言います。
自由だけど(自由だからこそ)、自分で考えなければならない(コントロールしなければならない)。
これがもし、「全くの自由(何でもやってもいい)」や「全くの保護(常に誰かが助けてくれる)」状況であったならどうでしょう?
責任を持って自分で考える必要はなくなるはずです。
実行機能が発達する敏感期は「4歳」と言われています。
この時期に「複数の機能をコントロールしなければならなくなる状況」を意図的につくることによって非認知的能力が育ちます。
ですから、非認知的能力が育つかどうかは、ほんのちょっとした違いなのです。
ただ遊ばせるのではなく、意図的に遊ばせる。
「今日は何をして遊びますか?」
「今日は何をして遊びましたか?」
この言葉があるかないかで、子どもの実行機能の発達は大きく変わります。
3.「シェアド・コントロール」というスキル
次に、「プラン・ドゥ・レビュー」の中の「ドゥ」で使われるスキルを紹介します。
先生が聞きます。「今日は何をして遊びますか?」
子どもは答えます。「妹に本を作ってあげたい!」
それで絵本を作ることになりました。
その活動の中で保育士は次のような言葉をかけます。
「どうやって作るの?」
「それはどんな形なの?」
これが「ドゥ」の中のスキルです。
保育士は大人ですから、この子が妹のために作ってあげたい人形をイメージして作り方を教えることはできます。
でも、敢えてそういうことはしません。
《知らないフリ》《できないフリ》をします。
「そう!じゃあ先生が教えてあげる!」などと言ってはダメなのです。
《知らないフリ》《できないフリ》をしながら子どもの遊びの中に入り込み、陰でコントロールする。
ハイスコープでは、このスキルのことを「シェアド・コントロール(共用制御)」と言っています。
この動画は2歳の孫がパズル遊びをしている時の様子です。
2ピース、4ピースで成功体験を積んで来た孫はパズルが大好きです。
しかし、この6ピースのパズルは買ったばかりでまだ慣れていません。
そこで母親が使っているのが「シェアド・コントロール」です。
どこがそれに当たるか分析してみてください。(約29秒)
「耳」のピースがうまくできなかった孫は別なピースを当てはめようとします。
そして、次に手にしたのもまた「足」のピースでした。
それを再び顔の横に入れようとしても、きっと無理でしょう。
でも、母親は「それはどうかなあ?」と知らないフリをします。
「それ、ダメだよ!」とは言いません。
知らないフリをして一緒に遊び続けます。
これが「シェアド・コントロール(共用制御)」です。
この「シェアド・コントロール」をしていると、子どもはどうなるか?
自分で考えるようになります。
「自分で考える」ためには次の2つが必要です。
意志と言葉
「自分で考える」の「自分で」が意志です。
そして、「考える」には言葉が必要です。
母親は言いました。
「それはどうかなあ?」
母親が答えを押し付けずにいたので、子どもは自分でパズルを続けます。
そして、この時、「どうかなあ」という言葉を教えています。
この場面のこの状況でピースを探す時に使う言葉として「どうかなあ?」を《使ってみせた》わけです。
2歳児の言語習得能力は驚異的です。
すぐにこうした言葉を吸収して自分のものにします。
続きを見てください。(約59秒)
「こっちはどうかな?」って言ってましたよね。
これが「自分で考える」です。
子どもがこうなるためには、自分の意志と考える時に使う言葉の獲得が必要です。
「シェアド・コントロール」はその2つを保障しているというわけです。
4.「足場づくり」というスキル
これは以前の講座でも解説しましたが、今回改めて実際の場面を見てみましょう。(約43秒)
足場づくりとは、子どもが自分でできないことを、親を含めた周りの他者が少しだけ支援することです。
(森口佑介著『子どもの発達格差』178ページ)
研究では、 子どもがうまくパズルができない状況で、親が子どもにどのようにかかわるのかを調べます。ある親は、子どもがパズルをできないのがもどかしくて、自分が実演してみせるかもしれませんし、別の親はほんの少しだけヒントを与えて、子どもが自分で できるように支援するでしょ う。前者は過干渉であり、 後者が 足場づくりです。後者が実行機能を発達させることが示されています。(前掲著178ページ)
講座484「ウェルビーイングになる育て方・前編」では、「過干渉」と「足場づくり」の違いについて解説しました。
それがこの動画から更に具体的にイメージできたかと思います。
最初は「できない!」と言ってあきらめかけていた孫ですが、母親の助け(足場づくり)によって困難を乗り越えることができました。
まさに「レジリエンス(困難を乗り越える力)」の育成場面です。
この「足場づくり」というスキルもハイスコープのスキルです。出典:「ハイスコープの特長」
5.「実況中継」というスキル
もう一つ別なスキルを紹介します。
「ああ!交換するのね!」
「赤色を使うのね!」
活動の中で保育士はこのような言葉もよく使います。
このスキルは日本の保育士さんたちもよく使います。
私はこのスキルを「実況中継」と呼んでいます。
子どもがやっていることを、そのまま言葉にしてあげるというスキルです。
「ピッチャー振りかぶって投げました!」というような野球中継の解説と似ています。
目の前で子どもが繰り広げていることを野球中継のように言葉にしてあげます。
この中継に子どもが反応しようとしまいと構いません。
ただただ中継を続けるのが「実況中継」です。
たとえば、この場面でみなさんならどんな言葉(実況中継)をしますか?(約22秒)
私だったら、
「ウサギさんの顔を作ろうとしています」
「あ、顔がパチッとハマりました!」
「次はなんでしょう?体を持って来ました!」
などと中継すると思います。
これが「実況中継」というスキルです。
子どもが目の前でやっていることを言葉にするだけですから簡単です。
しかし、このスキルの効果は絶大です。
たとえば、「ウサギさんの顔を作ろうとしています」という中継には「作ろうとしています」というけっこう難しい言葉が入っています。
孫は、この《~を作ろうとする》という言葉を知らないかもしれません。
しかし、この時に実況中継によって、この言葉が耳に入ることによって、2歳児はあっという間にその意味までも習得し、使いこなせるように可能性があります。
大人がその言葉の意味を《説明していない》にもかかわらずです。
むしろ、《説明していない》から習得できるのです。
パズル遊びをしている中の《このタイミング》で、「ウサギさんの顔を作ろうとしています」という中継をかぶせます。
すると幼児は、直観的に《今やっているこの行動を「ウサギさんの顔を作ろうとしている」と言うのだな》と推論します。
アブダクション推論です。(講座437 語彙爆発の秘密①)
実況中継は大人が独り言のように中継しているだけです。
しかし、その言葉の中に幼児の知らない《新しい言葉》があると推論が起こります。
そして、幼児はホモサピエンスに備わっている想像力を発揮して語彙を増やします。
これは2019年の研修会でシャノン・ロックハート氏が紹介してくださった対話場面です。
子供との対話の中で「シェアド・コントロール」と「実況中継」が使われています。
三番目の言葉を見てみましょう。
先生は「ああ!交換するのね!」と言っています。
女の子が何か材料を交換した場面です。
この時、女の子は「交換」という言葉を知らないかもしれません。
しかし、このタイミングで言われたら、その意味は劇的に理解しやすくなります。
これが「実況中継」というスキルの効果です。
先の孫の動画の最後に、孫はこんな言葉を使いました。
「ウサギさんニンジン食べようとしている」
この「~しようとしている」という用法は2歳時にとってはレベルの高いものです。
多分、この使い方も普段の生活の中の推論によって自分で獲得したのでしょう。
ただし、親がまるっきり何もしない中では推論は起こりにくいです。
何かしらの親からの言葉かけがあったものと想像します。
幼児教育は、それを意図的に仕組みます。
その代表的なカリキュラムが「ハイスコープ」です。
そして、その中で使われているスキルが「シェアドコントロール」や「足場づくり」や「実況中継」です。
また、そのカリキュラムの中心構造にあるのが「アクティブラーニング」という機能なのです。
6.追跡調査の結果
こうした幼児教育を受けた子どもが、その後どうなるかという追跡調査が、「ペリー就学前プロジェクト」として1962年から現在まで継続されています。
この研究では、学業困難のリスクを持つ貧困地域の幼児を2つのグループに分け、1つのグループにのみ、質の高い幼児教育(ハイスコープ就学前教育プログラム)を行うという比較検討が行われました。
その結果、ハイスコーププログラムを受けたグループの方が次の点で有意でした。
・5歳の時のIQが高い
・14歳時点での学校の出席と成績が良好だった
・19歳時点での高校の卒業率が高かった
・10代での妊娠が減った
また、この子供たちが40歳になった点の調査では次のことがわかっています。
給与、持ち家率、生活保護を受けていない率が有意に高いことが判明しました。出典:「ハイスコープジャパンとは」
また、50歳時点の調査では次のことが判明しました。
なんと、ペリー幼児教育の効果は、《受けた本人だけでなくそのこどもにも好影響をもたらす》ということが明らかになっています。
親がペリー幼児教育を受けている場合、その子供も高校を停学せずに卒業して、安定した仕事に就き、反社会的な行動や犯罪に関わる可能性が低いという調査結果が出たのです。出典:「50年の長期調査で判明した「幼児教育」の効果」リセマム
つまり、幼児期に適切な教育を受けていると、孫の世代まで《幸せ》が続くわけです。
この研究は、OECDが認めたという時点で社会的インパクトが大きいのですが、それよりも重要なのは《なぜOECDが認めたのか》という理由の方です。
それは、ペリー就学前プロジェクトが「ランダム化比較試験」を用いた研究であるという点です。
エビデンス(科学的根拠)という言葉がありますが、エビデンスには「レベル」があります。
そのレベルは、ピラミッドの形で説明されることが多いので「エビデンス・ピラミッド」と呼ばれています。
このエビデンス・ピラミッドで見ると、たとえ大学教授であろうと、専門家の個人的な意見は信頼度が下の方です。最も信頼度が高いのは統計学的に処理をされ、「有意(偶然ではなく意味がある)」と認められた研究です。
詳しくいうと、この「統計学的エビデンス」にも種類があるのですが、その中にあって「ランダム化比較試験」は上から二番目に信頼度の高い研究方法で、主に医療研究に用いられる手法です(最もレベルが高い研究方法はランダム化比較試験を複数集め解析する「メタアナリシス」という方法)。参考:「教育研究と政策」惣脇 宏(2011)
ハイスコープの幼児教育には高いエビデンスがあります。
その効果を簡単にまとめて終わります。出典:「ハイスコープジャパンとは」
・小学校への接続がスムーズになる
・自分をコントロールする力が身につく
・成人後に安定した家庭環境を作ることができる
・将来的に安定した雇用とより高い所得が得られる
幼児期における非認知的能力の育成は現在でも重要なテーマなのです。