講座526 「無償化」の落とし穴

「子育て支援」と言えば、《お金の給付》か《無償化》というイメージが定着気味ですよね。

令和元年10月から幼児教育・保育の無償化がスタートしました。

今度は高校の無償化が始まりそうです。

家計が助かるのはいいことですが、《家計》と《子どもたちへの教育》はイコールではありません。

むしろ悪い面もあります。

「子育て支援」って《お金》の支援だけでいいの?

再度、この問題を考えてみます。

 目 次
1.保育の《質》は変わったのか?
2.ケベック州の保育料引き下げ政策
3.保育の質をどうするか
4.「保育環境評価スケール」とは
5.「認可」は保証にはならない
6.親には「質」を見抜けない

1.保育の《質》は変わったのか?

ヘックマンの『幼児教育の経済学』についてはブログで何度も取り上げました。

日本政府も2018年の4月から改革を実行しました。

今回は別な角度からこの問題を検証します。

ヘックマンがノーベル経済学賞を受賞したのは2000年。

アメリカで『幼児教育の経済学』を出版したのが2013年。

日本で出版されたのが2015年。

日本政府が保育指針を改定したのが2018年。

日本の対応は割と速かったと思います。

でも、果たして、保育の《質》は変わったのでしょうか?

改革の真のねらいは長期的な経済効果、つまり、保育の《質》を高めることにあったはずです。

キーワードで言えば、「アクティブ・ラーニング」と「非認知的スキル」です。

それが実践され、子供達に身についたのでしょうか?

社会における負の連鎖は断ち切られたのでしょうか?

そのことを検証します。

2.ケベック州の保育料引き下げ政策

ヘックマンの『幼児教育の経済学』が出版された年に、中室牧子さんが『学力の経済学』を出版されて、こちらも大きな話題となりました。

それから9年後の2024年12月に中室さんが出版された『科学的根拠で子育て』も話題になりました。

この本はまさに、《あれから日本の幼児教育は変わったのか?》という問題を提起した本です。

《お金》ばかりかけてるけど《質》はどうなの?

そう語りかけてるように私には思えます。

中室さんの本の中にカナダのケベック州における保育料の大幅な引き下げの結果についての記述があります。

その元になっている論文をAIで和訳しながら読んでみました。

ケベック州では保育費の8割を州が負担する政策を1997年から5歳児からスタートさせ、2000年には2歳未満のすべての子供にまで拡大させました。出典:Baker, M., Gruber, J., & Milligan, K. (2008)

それから20年以上が過ぎています。

カナダ最大の州におけるこの劇的な政策にはどんな成果があったのでしょうか?

トロント大学のマイケル・ベイカー教授らは論文の中で次のように報告しています。

(1)母親の労働力参加の大幅な増加と関連していた。
(2)非認可育児の利用が減少した。
(3)母親の労働供給によって生み出された税収は育児補助金の増加の費用を支払うには程遠いものだった。

(4)認知的スキルへの影響はほとんど見られなかった。
(5)政策変更が子供の成果、育児、親の成果に悪影響を及ぼしたという一貫性のある強力な証拠が発見された。

 出典:Baker, M., Gruber, J., & Milligan, K. (2008) 訳:Gemini

簡単に言うと、経済的にも子供の発達の観点からも良い影響は見られず、むしろ「悪影響」があったということです。

「悪影響」というのは次のことです。

その結果は、多動性、不注意、攻撃性、運動/社会的スキルの低下、子供の健康状態、病気など、親が報告したさまざまな測定値で悪化しています。敵対的で一貫性の低い子育て、親の健康状態の悪化など、質の低下につながったことが示唆されています。
出典:Baker, M., Gruber, J., & Milligan, K. (2008) 訳:Gemini&Perplexity

この論文は2008年に発表されたものですので、ケベック州の保育政策がスタートしてから8年くらいです。

この時に調査対象となった子供達は5〜9歳でした。

注目しておきたいのは、この時点で既に「多動性、不注意、攻撃性、運動/社会的スキルの低下、子供の健康状態、病気など」が見られ、親の側にも「敵対的で一貫性の低い子育て、親の健康状態の悪化など」が起きているという点です。

そして、2019年にその後の調査結果が発表されます。

当時の子供達に対する追跡調査(コホート研究)の結果です。

子供達は10代後半~20代前半になっていました。

彼ら彼女らの自己申告では、健康と生活満足度の有意な低下を発見しました。最も顕著だったのは、他の州の同世代と比較して、犯罪行動の急激な増加です。回帰分析の結果、犯罪率が有意な上昇を示しました。また、これらの結果は主に男子に対するものであり、彼らはまた非認知スキルで最大の悪化をしめしていることがわかりました。
出典:Baker, M., Gruber, J., & Milligan, K. (2019) 訳:Gemini

このことを中室さんは著書の中で次のように解説されています。

保育料の引き下げのあとに保育所を利用した子どもたちは、彼ら彼女らが20代になったときの非認知能力、健康、生活満足度、犯罪関与に悪影響があったことがわかったのです。特に、男子に攻撃性や多動の問題が顕著でした。出典:『科学的根拠で子育て』

このベイカー教授らの研究結果が訴えているのは次のことです。

【成功例】ヘックマンが『幼児教育の経済学』の中で紹介したペリー就学前プロジェクト
【失敗例】ケベック州の保育料引き下げ政策

◆教訓:そのどちらもが長期に渡って子供達の人生に影響するという事実

3.保育の質をどうするか

ではなぜ、アメリカのペリー就学前プロジェクトは成功して、カナダ・ケベック州の保育料引き下げ政策は失敗したのでしょうか。

結論は出ていませんが、いくつかのことが考えられています。

①自分で保育費を支払っていた時と比べて、我が子の教育に対する親の関心が薄れる。
②保育する子供の数が増えて保育士の負担が増し、保育の質が低下する。
③保育施設が足りなくなって、劣悪な施設が紛れ込む。

①~③に共通するのは「保育(教育)の質」です。

世の中は《人手不足》ですし、《働きたい母親》は沢山います。

女性が育児のために家に閉じこもってしまうのは精神的にもよくありません。

《子育ては社会全体で担うもの》という人類の基本的な考え方に回帰する必要があります。

そこで重要になるのが《預け先》の保育の質です。

実は、その「質」を評価するための基準(スケール)があります。

これは中室さんの著書の中でも紹介されていますが、ECERS(エカーズ)という「保育環境評価スケール」です。

このスケールは6つのサブスケールと35の評価項目からなります。

「0~2歳」と「3歳以上」の2種類があります。

保育者の保育を観察し、このスケールに基づいて評価するわけです。

アメリカやイギリスなど英語圏の国を中心に世界20か国以上で使用されてるそうです。出典:「幼児教育の質評価スケール」埋橋玲子(同志社女子大学)

日本では大阪府、京都市、金沢市、多摩市などで実践する保育施設があるようですが、まだまだ広がっていないように感じます。

これを見ても、項目が多くて評価するのが大変ですし、誰が評価するのかという問題も大きいと思います。

そこで、私がこの評価スケールを解説してみたいと思います。

4.「保育環境評価スケール」とは

「6つのサブスケール」はこれです。

①空間と家具
②養護
③言葉と文字
④活動
⑤相互関係
⑥保育の構造

もともとは英語なので少し違和感があります。

①の「空間と家具」というのは、要するに「環境」のことです。

少しだけ補足するなら《幼児期にふさわしい室内環境》ということです。

《幼児期にふさわしい室内環境》とは、とどのつまり「遊びやすい環境」ですよね。

②の「養護」というのは、危険ではなく衛生的であるとうことです。

日本の多くの幼稚園、こども園、保育所は、この点で管理が行き届いていますよね。

高得点が期待できると思います。

③の「言葉と文字」というのは、語彙が増える環境のことです。

これは2つあります。

「保育者による読み聞かせ」と「子供が自分から絵本を取りに行き易い環境」です。

④の「活動」は、幼稚園、こども園、保育所における日課活動そのものです。

手や指を使う微細運動、造形、音楽リズム、積み木、ごっこ遊び(見立て・ふり・つもり)、自然体験、数・量・形に関する体験、ICT活用、多様性の受容、体を使う粗大運動。

これも日本の保育はかなり計画的に実践されていると思います。

⑤の「相互関係」というのは、《幼児への対応力》です。

これについては保育者のスキル(技能)が大きく影響します。

また、発達障害などの特性に関する理解と対応のスキルも含まれているので保育者によって差が出るスケールです。

⑥の「保育の構造」というのは、保育のカリキュラムのようなものです。

全体計画と考えてもよいと思いますが、具体的には「自由遊び」「集団遊び」「異年齢交流」などの時間の確保やバランス、退屈な時間をなくすことといった保育のマネジメントを指しています。

これも日本では計画的に実践している施設が多いと感じます。

ということで、「保育の質」において最も差が出るのは⑤の「相互関係(幼児への対応力)」だと思われます。

5.「認可」は保証にはならない

このことについては2022年に慶應義塾大学の藤澤啓子教授らの研究結果が公表されています。

サブスケール「相互関係」は,他のサブスケールと異なり,遊具や教材,設備といったような物理的な環境整備ではなく,保育者の子どもへの関わりや見守りのあり方により焦点があてられた評価内容となっている。サブスケール「言葉と文字」も同様である。そのため,これらのサブスケールは,物理的環境に反映されにくい「保育者による違い」をより強く把握するものと言えるだろう。これを踏まえるとこの結果は,「保育者による違い」が大きい保育所もあれば小さい保育所もあるということを意味する。これはどのようなメカニズムによってもたらされているものだろうか。出典:「認可保育所における幼児教育・保育の質に関する評価の実施と課題」内閣府経済社会総合研究所

「保育者による違い」が大きい保育所もあれば小さい保育所もある

この原因を同論文は次のように解説しています(水野要約)。

①施設長や主任らのリーダーシップの影響
②時間開所を支える保育者のワークライフバランスへの配慮
③専門性向上に資する研修機会の保障

こうしたことによって個々の保育者が日々の実践に自らのスキルをいかに発揮させるかは異なってくるだろう。
参考:「認可保育所における幼児教育・保育の質に関する評価の実施と課題」内閣府経済社会総合研究所(17ページ)

いずれも妥当だと思います。

要するに、日本の幼児教育を失敗させないためには①~③をどうやって保障するかが重要というわけです。

この論文の中で衝撃的だった一文を抜粋します。

本研究の結果から,認可保育所であるということは,子どもの発達に関わりのある幼児教育・保育の質の提供が同程度になされていることの保証にはならないということが考えられる。出典:「認可保育所における幼児教育・保育の質に関する評価の実施と課題」内閣府経済社会総合研究所

前後の文章も含めると次のようになります。

日本では,一定の設置基準を満たした保育所は認可保育所として認可される(自治体レベルの設置基準を満たし開園している園もある。例えば東京都認証保育所)。保育所設置基準には,職員配置基準や施設設備など「構造の質」に関わる要件については詳細な定めがあるが,子どもの発達に直接的に関連があることが分かっている「プロセスの質」についてはほとんど定めがない。保護者は保育所選択にあたり認可保育所であることを選好するが (中室, 2019),本研究の結果から,認可保育所であるということは,子どもの発達に関わりのある幼児教育・保育の質の提供が同程度になされていることの保証にはならないということが考えられる。現在の保育所への運営費の交付は定員に基づいてなされており,提供されている幼児教育・保育の質に基づいていない。また,保護者が負担する保育料は自治体が決定している。同じ保育料を負担していながら施設が異なると子ども達が経験できる幼児教育・保育の質が異なるという状況が生じていると言えるかもしれない。出典:「認可保育所における幼児教育・保育の質に関する評価の実施と課題」内閣府経済社会総合研究所

つまり、「保育料引き下げ」や「無償化」といった政策だけでは幼児教育の質は確保できないということです。

しかも、幼児期の保育・教育は長期に渡ってその後の人生に影響します。

人生に影響するのですから「失敗」は許されません。

6.親には「質」を見抜けない

最後にもう一つ衝撃的な事実を紹介します。

親には幼児教育の質の高低を見抜けない

これは中室さんの著書にある言葉です。

私たちが「保育環境評価スケール」を実施した保育所の中には、第三者評価も受けている保育所がありました。両方のデータが揃っている保育所について調べてみると、「保育環境評価スケール」で計測した幼児教育の質と親の満足度のあいだにはまったく相関は見られませんでした。(中略水野)親は日中の保育所での様子を見ているわけではありませんから、保育所での活動内容がわからなくて当然です。つまり、日本でも「親が幼児教育の質を正確に評価することは難しい」と言わざるを得ないのです。出典:『科学的根拠で子育て』

「うちの園は大丈夫だと思う」とか「ここの保育所の先生方は優しいから大丈夫だと思う」といった印象はあてにならないということです。

その根拠は精密な研究結果からわかっています。

分析の結果,ECERS による評価結果と第三者評価事業による評価結果は無関連であることが分かった。さらに,ECERS による評価と子どもの発育状況や就学後の学力,保護者の子どもに対するポジティブ感情には,子どもの家庭の社会経済的背景の影響を統制した上でもなお正の関連がみられた一方,第三者評価事業による評価結果はこれらのいずれとも,統計的に有意な関連はなかった。出典:「福祉サービス第三者評価と保育の質との関連:現状と課題」独立行政法人経済産業研究所(2022)

これはなぜなかと言いますと、保育者のスキルというものは専門技能だからです。

プロの目で見なければ分からないのです。

これは2019年の6月に青森県の弘前市にて開かれたHighScope教育財団の研修会でアメリカから招かれたシャノン・ロックハート氏が紹介してくださった対話場面です。

子供との対話の中で「シェアド・コントロール」と「実況中継」というスキルが使われています。

子供との数秒間の対話の中をこのように分析することが保護者には難しいものです。

育児書などで勉強したとしても難しいはずです。

なぜなら、それは「技能」だからです。

技能というのは目に見えません。

その人が《持っている能力》ですから目に見えないのです。

スポーツや職人の世界と同じで、解説できる誰か(技能を見抜ける人)がいなければ一般の人には分からないのです。

したがって、「保育の質」を高めるには次の3つに頼ることが大切です。

①施設長や主任らのリーダーシップが発揮されていること
②保育者の働き方が配慮されていること
③専門性を向上させる研修が実施されていること

こうしたことによって個々の保育者が日々の実践に自らのスキルを発揮できていること
参考:「認可保育所における幼児教育・保育の質に関する評価の実施と課題」内閣府経済社会総合研究所(17ページ)

私自身も保育士研修の場に招かれる機会があるので、これからも勉強をし続けるつもりです。

政策に関わる方々には、「保育料引き下げ」や「無償化」といったことだけでは幼児教育の質は確保できないという事実を念頭に置いていただき、①~③の確保も強化してしてくださることを期待しています。

講座527 「子育て支援」って《お金》だけでいいの?

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水野 正司

子育て応援クリエイター:「人によし!」「自分によし!」「世の中によし!」の【win-win-win】になる活動を創造しています。

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1件の返信

  1. 2025年2月20日

    […] 講座526「『無償化』の落とし穴」で書き忘れていたことを書きます。 […]

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