講座552 附属池田小児童殺傷事件

人間学を学ぶ月刊誌『致知』の12月号が届きました。

私はだいたい、届いたその日の夜に読み切ることにしています。

その日もそうでした。

中でも社会福祉士の本郷由美子さんと文学博士の鈴木秀子さんの対談が衝撃的でした。

本郷さんは長女の優希ちゃん(当時小学二年生)を池田小の事件で亡くされています。

事件のおおよそはニュースなどを聞いて知っていましたが、

私が知っていたのはゴシップに過ぎなかったと思い知りました。

つまり、私は、《実際にお子さんを亡くされた方の気持ち》を考えたことがなかったのだと気づきました。

悲惨な事件であることはわかっていても、そのことを心の奥で《想像する》という立ち止まった思考をしたことがなかったのです。

事件が起きたのは平成13年(2001年)6月。24年前です。

今回やっと、その事件を、お子さんを亡くされた方の視点と重ねて、考える機会を得ることができました。

私が感じたことを綴らせていただきます。

 目 次
1.社会的再適応評価尺度
2.グリーフケア
3.恨みからは何も生まれない
4.愛別離苦

1.社会的再適応評価尺度

ストレスの度合いを測る測定法として「ライフイベント法」があります。

ストレスというのは、《生活様式の変化に再適応するまでの労力である》という考え方に基づいています。

その《生活様式の変化》で基準となっているのが「結婚」です。

この「結婚」によるストレスが基準である「50」です。

そして、50より小さければ社会的なストレスは小さいとみなします。

50より大きければ社会的なストレスは大きいとみなします。

これがストレスの「社会的再適応評価尺度」です。

そのランキングの一部を転載させていただきます。

これらはすべて50以上で、最も高い(再適応が困難な)のが「配偶者・パートナー・子どもの死」です。

私には妻がいます。

妻とはいつか死別する日が来るでしょう。

これは「老い」の宿命です。

しかし、「子どもの死」というのは全く別です。

考えられない、考えたくない。

想像できない世界です。

自分がそうなった時に「再適応」ができるのか。

ましてや「殺害」によって我が子を失った親御さんの心境はどれ程なのか。

当然、犯人を恨むことでしょう。

その恨みは、どれ程のものなのか。

恨んだところで、我が子は戻って来ないのですから、その絶望にどう向き合うのか。

この記事を読むことで、私は自分の人生で初めて、このことを想像する機会を得たように思います。

2.グリーフケア

事件によって優希ちゃんを失った由美子さんは、今、グリーフケアの活動をされています。

グリーフケアとは、大切な人などを失った方の悲しみに寄り添い、回復して自立できるようサポートをする活動です(参考:日本グリーフケア協会)。

私が驚いたのは、その強さと優しさです。

悲惨な事件によって我が子を亡くされたお母さんが、勉強をして資格を取り、そのようなケア活動をされているということに驚きました。

これは由美子さん自身が「回復」されたという簡単なことではないと思います。

我が子を亡くすという出来事からの回復など、親として出来ることではないのだと思います。

にもかかわらず、ご自身の悲しみを抱えたまま、同じように悲しんでいる方々のケアをされているという事実。

その強さと優しさに、読んでいて心が震えました。

次の言葉が印象的でした。

私は「悲しみを乗り越える」という言葉を使わないんです。悲しみは、現在進行形です。(28ページ)

やはり、抱えて生きるしかないのですね。

Grief(グリーフ)とは「悲嘆」です。

それをケアするのがグリーフケアです。

悲しみは乗り越えることが出来なくても、癒すことはできる。

それがグリーフケアの考え方だと思います。

興味深いのは、グリーフケアの癒し方がシステマティックだということです(出典:日本グリーフケア協会)。

(1)悲しい出来事があった時、人はどのようになるかという知識を持つこと
(2)充分に悲しみ、何らかの方法で悲しみを表出すること
(3)人の情けを素直に受け入れること・助けを借りること
(4)いつか人生の中でお返ししようという思いを失わずに生きてみること

私は教員のメンタルヘルスに関わる活動もしていますので、この四つが実感とともに参考になりました。

知識、順序、悲しんでいいこと、助けを借りることの大切さ、そして、「お返し」という光。

どれも非常に示唆に富む言葉です。

そして、この四つが由美子さんのその後の人生と重なりました。

3.恨みからは何も生まれない

もうひとつ衝撃を受けたのは由美子さんの加害者に対する考え方です。

当然ですが、由美子さんは犯人を恨みました。

「徹底的に憎んだ」と言います。

一歩間違えたら自分が加害者になっていたかも知れないと振り返っています。

そんな中で、由美子さんは犯人の成育歴を知ります。

親から「生まれなければよかった」と言われていたこと。

虐待を受けていたこと。

自暴自棄になっていたこと。

それを知った由美子さんは「恨みからは何も生まれない」と気づきます。

加害者ももともとは悲しみを抱えた被害者だったのではないでしょうか。被害者が加害者となって他の被害者を生み出してしまう循環と暴走を止めることができなかったのだろうか、誰かがどこかで「かなしみ」に寄り添うことができていたとしたら、事件を起こさずに済んだのではないか。いつの頃からかそう思うようになったんです。(25ページ)

衝撃でした。

娘を殺された母親である由美子さんの言葉です。

なんと重たい言葉でしょう。

これ以上の「お返し」があるでしょうか。

しかし、この「循環」は真実だと思います。

学校社会で起きている悲しい出来事も同じように《負の連鎖》が続いています。

どこでそれを食い止めるか。

ケアというのは一つの大きな手立てだと思いました。

そして、すぐにまだ読んだことのなかった由美子さんの著書『虹とひまわりの娘』を注文しました。

4.愛別離苦

この本を読むと、由美子さんがいかに大切に優希ちゃんを育てていたかが分かります。

私はこれまでに1000冊以上の子育てに関する本を読んでいますが、由美子さんの子育ては愛と知性を育む最高のお手本だと思います。

その過程が丁寧に描かれているだけに、《こんなに大切に育てているお子さんを失うなんて…》と思わずにはいられませんでした。

そして、周囲の方々の優しさ。

《人間とはこんなにも優しいのか!》と心に突き刺さりました。

周りのお母さん方の優しさはもちろんですが、私は教員でしたので学校の対応にも強い衝撃を受けました。

由美子さんが優希ちゃんが過ごした教室を覗きに行った時のことです。

由美子さんの姿を見つけた子が「本郷さんのお母さんだ!」と叫ぶや否や、子どもたちが駆け寄って来ます。

「今日な、本郷さんと鬼ごっこしたんだよ」

「いっしょに遊んだよ」

「本郷さん縄跳び好きだからいっしょにしたんだよ」

「優希ちゃんとあの子はラブラブなんだよ」

クラスの子どもたちが亡くなった優希ちゃんのことを現在形で話すのです。

こんなことがあるのでしょうか。

これはきっと、担任の先生の心配りなのでしょう。

亡くなった子の机や椅子をそのままにしておくことはありますが、クラスの子がこのように話すというのは、その陰に担任の先生の語りかけがあったはずです。

それは《今も優希ちゃんはみんなと一緒にいるんだよ》という趣旨のお話だったのだと思いますが、きっとそれだけではないはずです。

出席や健康観察をする時、「いただきます」をする時、遠足などの行事をする時など、本当に優希ちゃんが教室に居るものとして、学級運営をされていたのだと思います。

科学的には、亡くなった人が現実世界に存在するはずはありません。

しかし、教育の世界では、科学も含めて、広い考え方を扱うのが基本だと思います。

子どもたちが持っている可能性をつぶさないのが教育だからです。

私は担任の先生の配慮に心を打たれました。

そして、最終章にあるご夫婦の意見陳述書。

これを本に載せるかどうかは迷われたと思いますが、私は読ませていただいてよかったです。

この社会から《負の連鎖》をなくさなければならないという思いを強くいたしました。

人生の悲愁を越え命を見つめて生きる(12 月号ピックアップ記事 /対談)

水野 正司

子育て応援クリエイター:「人によし!」「自分によし!」「世の中によし!」の【win-win-win】になる活動を創造しています。

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