講座520 一斉指導が出来ない教師たち

先日、「教科書を使えない教師たち」という動画をアップしたのですが、

予想通り、学校の先生方の中にはそのことを受け入れられない方がいらっしゃったみたいです。

でも、私のブログの読者は先生方よりは保護者の方が多いので反応が異なるんです。

《教師の世界を知っている人がこういうことを書いて下さるのは貴重です》という感想をいただけました。

YouTubeとブログで反応が異なるとうのは正に《学校》と《学校外》で見方が違っているということを表しているように感じています。

そして、今回も、学校の先生方には申し訳ない内容になってしまいますが、

とても大事なことだと思っているので書きたいと思います。

 目 次
1.一斉指導と個別指導
2.どちらが上手いか?
3.個別指導のリスク
4.授業におけるバイアス
5.一斉授業の例

1.一斉指導と個別指導

「一斉指導」というのは、教室にいる子供達に一斉に指導する形の授業形態です。

こんな感じです。

これに対して「個別指導」という授業形態があります。

こんな感じです。

一斉指導と個別指導。

教師が勉強を教える形には大きくこの2種類があります。

そして、現在は、この一斉指導が出来ない先生方が増えているように感じます。

これが今回のテーマです。

2.どちらが上手いか?

いま、イラストを2名示しましたが、メガネの女の先生とイケメンの男の先生とでは、

どちらの先生が授業が上手いと思いますか?

これ、ベテランの先生ならすぐにわかるのです。

まず、イケメンの男の先生は基本的にアウトです。

その理由を丁寧に説明します。

まず、一斉指導と個別指導とでは、一斉指導の方が高い授業力を必要とします。

考えてみればわかりますが、多くの子供達を相手にするのが一斉指導ですので、難しいのです。

出前授業といって、教師以外の人がゲスト的に学校に出向いて特別授業をする場合があります。

たとえば、戦争体験者の方がご自分の体験を語るとか、漁師さんが魚の獲り方を授業するとか、税務署の方が税金の仕組みについて授業するだとか、いろいろあります。

そんな時、多くの場合、教師ではありませんので一斉授業のスキルを持ち合わせていらっしゃいません。

申し訳ないのですがシロウトさんです。

でも、いつもと環境が違うので子供達はちゃんと話を聴こうと頑張ります。

あるいは先生が後ろで睨んでいるのできちんとしています。

授業をされている特別ゲストさんは気づいていらっしゃらいかも知れませんが、ほとんどの場合はそうした環境に支えられて授業が成り立っています。

授業力で成り立っているわけではないのです。

しかし、日常の授業は違います。

毎日毎時間、決まった先生が授業をするわけですから「特別な環境」はありません。

授業力が問われます。

そして、子供達は複数いるわけですから、通常は一斉授業の形をとります。

言ってみれば、一斉授業というのは教師という専門職が持っているプロのスキルなのです。

(1)一斉授業は教師だけが持っている専門的なスキルである。

それに対して、個別指導は一人の子供を相手にする指導形態ですから、

専門的なスキルをほとんど必要としません。

《一斉指導のスキルは必要ない》わけです。

ですから、教師以外の人でも気軽に出来ます。

こういう場合よく使う表現として《隣のおばちゃんでも出来る》という言い方がありますが、まさにそういう感じです。

最近の学校には、支援員さんという立場の方が授業のお手伝いをされることがありますが、支援員さんは教員免許がない方でも働くことができます。

支援員さんは個別指導をする場合がほとんどで、一斉指導をする立場ではありません。

その理由は《一斉指導は難しい》からです。

つまり、《個別指導は一斉指導より簡単》ということです。

そうやって考えると、イケメン先生は授業が下手なのだろうか?

となりそうですが、

授業が上手い先生だって個別指導をする場合があるので、イラストだけでは判断できないように思いますよね。

ところが、判断できるのです。

このイケメン先生は授業が下手です(イケメン先生は支援員ではありません。授業者です)。

どうして下手なのか理由がわかりますか?

その理由を次に説明します。

3.個別指導のリスク

前提にあるのは二人とも授業者、つまりメインの教師ということです。

そのメインの教師が膝を折った姿勢で個別指導をしているというのはやり過ぎです。

このような個別指導を《べったり張り付いている指導》と言います。

授業の上手い先生は授業中にこのような教態(姿勢)をとることがほとんどありません。

理由は2つあります。

①全体を掌握できなくなる可能性

②張り付かれた子が迷惑に思う可能性

一人の子に時間をかけている間に、その子以外の子へ目が向きません。

メインの教師は全体を掌握しなければならないのですが、それが疎かになります。

ですから、個別指導をするなら《一瞬》で済ますべきです。

また、子供の中には《長くいられると迷惑だ》と思う子もいます。

自分だけ長く教えられるのは《勉強ができないからだ》という恥ずかしさを感じる子もいます。

本当はそんなことを気にしない学級をつくるべきなのですが、べったり型の個別指導をする先生のクラスほど嫌がる子が多いように思います。

それは、全体を掌握できていない状態で個別指導を続けるからでしょう。

信じられないかもしれませんが、大多数の子が問題を解き終わってガヤガヤ騒ぎ始めているのに、先生が一人の子にべったり張り付いて指導を続けている場面を何度も見たことがあります。

私にはまるで、時間を稼いでいるかのように見えました。

教師が教室の正面に立つ時間を減らすためです。

(2)一斉指導の力を持った先生ほど正面にいる時間が長い

「書けた人からノートを見せに来なさい。」

一斉指導ではよく使う指示です。

しかし、最近の若い先生の中には、こうした指示に抵抗を感じる人がいるようです。

「見せに来なさい」という命令口調が駄目なようです。

だったら「見せにいらっしゃい」でいいと思うのですが、それも駄目なようです。

子供にノートを持って来させるという行為自体が命令的なのでしょうか。

結局、授業の終わりにノートを集めて放課後に職員室で山と積まれたノートに赤ペンを入れるという働き方をしてしまうようなのです。

もう一つの理由は、ノートを持って来た時に長々と対応してしまうことです。

一人一人に丁寧にしゃべってしまうのです。

一人にしゃべったら次の一人にもしゃべらなければいけないと思ってどんどん列ができる。

列の後ろでおしゃべりが始まる。ふざけ合いも起きる。

結局、先生が怒る。

つまり、個別評定のスキルを持っていないということです。

ちなみに、全員にノートを持って来させると個別指導は要らなくなります。

全員を掌握できますから。

ノートを見せに来た時に、小さな声で支援をしたり、大きな声でわざと他の子に聞こえる支援をしたりすることもできます。

教師は一人一人のノートを見る合間にチラッと全体に目をやることもできます。

また、《先生が前にいる》ということだけで統率効果はあるのです。

ということで、二つのイラストを比べた時に、しゃがみ込んで個別指導をしているイケメン先生の授業力は基本としてアウトです。

4.授業におけるバイアス

じゃあ、授業が上手いのは一枚目のイラストの女性の先生かというと、この先生も授業が上手いようには見えません。

なぜだかわかりますか?

立ち歩いている子がいるからではありません。

むしろ、立ち歩きを許しているのはいいことのように思います。

この先生の授業は《挙手・指名型》です。

「わかる人?」と聞いて、手を挙げさせるのが《挙手・指名型》の授業です。

授業の上手い先生方は滅多に使わない方法です。つまり、基本ではないということです。

ところが、世間一般では、授業というと子供達が手を挙げて発表するというシーンが広く行き渡ってしまったために、AIに画像を生成させる場合も具体的なプロンプトを指示しなないとこうした場面を作ってしまいます。

わかる子、出来る子だけに当てるという授業がいい授業なわけがないと思うのですが、戦前からの影響で優等生が活躍するのが授業であって、手を挙げないのはダメな子という子供の側に勉強の責任を持たせる風潮が今も残っています。

しかも、命令を避ける傾向のある若い先生にとっても、このことは好都合なのです。

《手を挙げていない子に発言させる》というのは強制的だと感じるのでしょう。

そのような背景もあって《挙手・指名型》は未だに根強く残っています。

しかし、一斉指導の中では、あまり上等な手段とは言えません。

イケメン先生の場合と比べて、そんなに違いはないと思います。

世間には、授業と言えば《挙手・指名》というバイアスがありますが、プロの目から見れば違います。

漫画家さんの都合は《それらしく見えること》です。

教師がそのバイアスに乗ってしまってはいけません。

個別指導も同じで、《それらしく見える》というバイアスがあります。

そして、それとは逆に、世間では一斉指導に対する偏見が根強くあります。

「一斉指導は画一的」「一斉指導は古い」などという言説です。

どうも世間で一斉指導と言う場合には、《教師が黒板に張り付いて長々と説明するだけの退屈な授業》を指しているような気がするのですが、違いますでしょうか?

そんなものは一斉指導ではありません!

世間の人々がそう思うのは仕方ないとしても、現場の教師までもがそうした言説に乗ってしまうのはいかがなものでしょう。

協働的な場が少なくなっているこれからこそ、一斉指導のスキルは教師に求められるように私は思うのですが、そのスキルを持った先生が少なくなって来ていることに不安を抱きます。

今や一斉指導のスキルは絶滅が危惧されています。

5.一斉授業の例

講座518「教科書を使えない教師たち」の最後に私は次のように書きました。

このページを「説明しない」で、説明したとしても「5秒以内」で、教えられますか?

最後にこれを授業してみたいと思います。

もちろん一斉授業です。

「教科書18ページ、入場者数は何人かな?、サッカーの試合の入場人数は、8912人です。下の数直線を使って、8912人がおよそ9000人と考えられるわけを説明しましょう。みんなで。」

最初に「教科書18ページ」と言うのは、ページを知らせる意味もありますが、教師の声によって《あ、始まった!》と気づく子を想定しているからでもあります。間違っても、「早く開きなさい」などと注意したり、全員が開くまで待っていたりしてはなりません。

ですからすぐに続けて「入場者数は何人かな?」と読んでいるわけです。

そして、続けて問題文をゆっくり読みます。

既に教科書を開いて教師が読んでいるところを見ている子もいれば、読んでいる間に追いついて来る子もいます。教師が読んでいる途中で、中には隣の子がどこを開いているのか確認しながら、すべての子が教科書を開き終わります。もちろん、教師の立ち位置は教室の正面です。読みながら全体に視線を送ります。教科書とにらめっこをしてはなりません。教科書を胸より低い位置に持ちます。

また、一学期であれば教科書を開くのにもっと時間がかかるはずですが、この単元は二学期の後半ですので、そんなに待たなくても開けるようになっています。ですから、いちいちほめたりしなくてもスムーズに授業に入って行けます。「サンハイ」と言わなくても「みんなで」という言葉だけで子供達は声をそろえて問題を読み始めます。

子供達が読み終わった直後に言います。

「『およそ』という言葉に指を置きなさい。」

「お隣同士確認。その言葉を赤鉛筆で囲んでごらん。」

直後に言うのは視線がまだ問題に向いているからです。数秒間が空くだけで子供の視線はどこかへ移ってしまいます。それだと「およそ」を見つけられない子の数が増えます。指を置かせることで確認ができます。「『およそ』を見なさい」では確認が出来ません。また、指を置かせることで、探せない子は隣の子がどの辺に指を置いているかを知って自分でも探すことが出来ます。そうやってから赤鉛筆で囲ませます。これが、読ませた後にいきなり囲ませたなら見つけない子が出ます。囲むことができない子を出したまま授業を進めるなら、その子は「もういいや」と思って授業を放棄する可能性があります。これが「一人も取り残さない」ということです。

「『およそ』を別な言葉でなんていうか、知ってる人? 太郎君!」

「なんていうか」の後に「、」を入れます。これは、この時点で知ってる子は何らかのアクションを起こすからです。小指が動いたり、目がキランとしたり、中にはこの時点で「ハイハイハイ!」と手を挙げる子もいます。教師はそうした子の名前を呼んで指名します。これを意図的指名と言います。ここは「約」という言葉を出させるだけでいいわけです。ですから、知ってる子を活躍させればいいことになります。また、「『およそ』を別な言葉でなんていうか、知ってる人? 太郎君!」と連続していますから授業がテンポよく進みます。

「そうだね!『約』と言います。その下に『約』って漢字で書いてごらん。」

教科書に書き込ませます。だから教科書を使うわけです。これを《作業》と言います。赤鉛筆で囲むのも、教科書に書き込むのも《作業》です。《問い》と《作業》によって《「およそ」のことを「約」とも言います》という説明をしなくて済みます。漢字がわからない子もいますから教師も黒板に書きます。ちなみに「およそ」という言葉は日常生活ではほとんど使いません。学習用語です。そして、この単元では「約」という言い方がこの先、重要になります。そこで最初から意図的に示します。ただし、「だいたい」とか「大まか」とか「近い」という言葉ともリンクさせる必要もあります。

「その下に数直線があります。先生が言うところに指を置いてごらん。8000! 8100! 8200!… 9100! 7900! 8912! 8912はおよそ何人? そうだね。およそ9000人だね。」

「その下に」という言葉が大切です。子供の視線移動と教師の言葉を同期させます。そして《作業》です。「7900!」の時は少し大きめの声でスバヤク言います。ジャンプするので変化をつけるわけです。子供達は喜んで指を付けます。次いで「8912!」も大きめの声でスバヤク言います。子供達は喜んで指を付けます。こういうのは楽しいわけです。そして、「8912はおよそ何人?」とスバヤク聞きます。指を付けたすぐ近くに「9000」と書いてあるのですぐわかります。この時、「そうだね9000人だね」と言ってはなりません。「そうだね。およそ9000人だね。」と必ず「およそ」を付けます。それが教師の役目です。

「さくらさんの言葉を読んでごらん。」

子供「8912が9000に近い数だからかな。」

教師「近いから『およそ9000』なんですね。」

ここで初めて説明をします。一文です。5秒以内です。

こうした授業を一斉指導と呼びます。

ここまで、授業開始から5分くらいでしょうか。

一斉授業は教師だけが持っている専門的なスキルである。

このことをお伝えできたでしょうか?

しかし、この例だけでは世間一般の一斉指導に対する偏見は払拭できないと思います。

《やっぱり画一的だ》とか、《主体的でない》という声が聞こえて来そうです。

でも、私の基準は多様性とか主体性とかではなく、

子供達が《わかる!》《できる!》《勉強楽しい!》と思うことと、

《勉強が苦手な子こそ大切にする》ということですので、

一斉指導はこれからも必要な授業スキルだと考えています。

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水野 正司

子育て応援クリエイター:「人によし!」「自分によし!」「世の中によし!」の【win-win-win】になる活動を創造しています。

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